はじめまして!
私は乳腺(胸・おっぱい)の画像診断を専門にする放射線科医です。
肩書きには、「乳腺放射線科医」と書いていますが、何やっているのか、さっぱりわからないですよね。。
乳腺放射線科医ってどんな仕事?
そもそも放射線科医って?
放射線科医はちょっと前まで全っっく認知されていなかったのですが
ドラマ「ラジエーションハウス」 のおかげで認知度が上がり、大変嬉しく思っています。
とは言っても知らない方も多いので、ちょっと説明!
レントゲンとか、CTとかMRIとか、画像検査をした後に
我々が実は裏で画像診断をしています。
(ちなみに撮影をしてくれる人は技師さんで、我々と職業は違います)
どんなことを見ているかというと
・お腹が痛くて、CTを撮ったけど、原因となるものはあるか?
・がんがどのくらいのサイズで、リンパ節や他の臓器に転移はあるか?
・抗がん剤は効いていて、がんは小さくなっているか?
などの情報をレポートに記載し、主治医の先生はそれに基づいて患者さんに説明をしています。
乳腺分野を専門とする放射線科医とは?
私が医師を志したのは、感動する理由は一つもなく
父親が医師であり、いい職業なんだろうな、と思ったからです。
私は医学生の頃から女性の健康をサポートする科に興味があり、産婦人科をまず第一に考えました。
その後「乳がん」と「画像診断」に興味を持ったことから、乳腺放射線科医となることを選びました。
(かといって、患者さんと話すのは好きで、数年間内科の外来や往診なども週に1回担当していましたよ)
様々な施設で乳がん検診の読影・説明を行ったり
また乳がん手術件数の多い大学病院で、乳がんになった方の術前診断や抗がん剤の効果判定、再発・転移のチェック
マンモグラフィガイド下の針生検を担当していました。
10年の臨床経験を積んだのち
2018年にスタンフォード大学の放射線科乳腺画像部門に研究留学をする機会をいただき
35歳で単身渡米しました。
35歳から人生が急展開
1年の留学のつもりだったけれど
大して英語もしゃべれない状況で飛び出した、勇者である私は留学して悪戦苦闘の毎日を送っていました。
そんな中、なんの気なしに行った会で出会ったアメリカ人が私にベタ惚れになり(笑)
付き合うことになりましたが、留学は1年間の予定です。
「日本に戻らないといけないけど、この人とも一緒にいたい。
そもそももう36歳だし、結婚もしたかったし子供も欲しかったし、これがラストチャンスかも、どうしよう。」
とハゲができるほど悩みました。
当然、大学病院の教授には反対されましたが、もう残ろうと決めた頃
妊娠が発覚し、アメリカに残る決断を後押ししてくれました。
念願の家族を手に入れたけど
国際結婚し、アメリカでのラストネームがFoxになりました。
(私ちょっとキツネみたいな顔をしているので、いいラストネームになったなぁと気に入っています!)
そして臨月に最後の学会発表を終え、出産しました。
念願の家族を手に入れた私でしたが、産後アイデンティティクライシスに...。
赤ちゃんは可愛いけれど、「これから仕事どうしよう」「今まで頑張ってきたのに」と、悶々とした毎日。
グリーンカードや家族の関係で帰国することも難しく
アメリカで医師免許を取り直すか
研究だけする道を選ぶのか。
その2択しか思い当たりません。
幸い、遠隔画像診断の仕事を再開できましたが
その仕事にあまりやりがいを感じることができませんでした。
「ずっとこればっかりは厳しい...」
ここで新しくやれることを探してみよう!
画像診断以外にも何かしたい!
今まで勤務医として働いた経験しかなかった私ですが
世の中にはオンラインで活動している方がたくさんいることを知りました。
コロナ禍でセミナーのオンライン化も急速に進んでいたこともあり
「そうか、自分でオンラインでやってみればいいんだ!」
立ち直りが早く、開き直ることも得意な私は
乳がん啓発のFBグループを作り、一般の方向けにセミナーを始めました。
また小さい頃文章を書くのが好きだったことも思い出し、ブログも始めてみました。
オンライン上ではありますが、人と関わり、感謝され、毎日が充実していく実感が湧いてきました。
勝手に作った居場所がだんだんできていったのです!
「まさか、私が」思いがけない3度のPregnancy Loss
一方、年子でワイワイ育った私は、第1子を出産後、間もなく第2子を欲しいと思うようになりました。
妊娠自体はするのですが、38歳のとき流産、子宮外妊娠、流産と
3度も立て続けにお腹の赤ちゃんとお別れをしました。
医師としての知識はあったけれど、いざ自分に起こると辛くてたまらず
「自分の年齢のせいだ...」と何度も何度も自分を責めました。
この経験は自分にとって、辛く大きなライフイベントで、価値観も大きく変わりました。
相当辛かったけれど、どこに、誰に相談すればいいかわからなかったこともあり
同じような経験をした方の何か役に立てれば、と思い
お腹の赤ちゃんを失った方のために、仲間とピアサポートグループも始めました。
そうして、乳がんのことだけでなく、流産のことも発信するようになりました。
これからも挑戦と調整を
そうこうするうちに、アメリカの医療機器メーカーでの仕事ももらえ、画像診断は引き続きやっています。
今までと働き方は変わりはしましたが
「乳がんで亡くなる方を、ひとりでも減らしたい」という想いは変わりません。
私が乳がんの勉強をし始めてから、十数年。
残念ながら罹患数も増加、死亡率も増加していますが
相変わらずたくさんの方が「他人事」と思っている節があり、検診率は上がりません。
私自身が乳がんリスクの高い年齢になってきていることで
今まで以上に、乳がん啓発に携わっていきたいと思うようになりました。
どうやったら伝わるのか?
忙しい病院勤務をする中では、考えることができないポイントなので
じっくり案を練っていきます。
加えて、自分自身が医療を提供する側から医療を受ける側となり、
「病院って、医療ってそんなにカバーしてくれているわけではないんだ」ということも痛感しました。
病院を出てから、患者さんには生活があります。
この気づきが、活動の根幹ともなってきています。
医師というと、遠い存在に思われがちですが、私もひとりの人間で、かなり親しみやすい性格です(笑)。
高齢出産ワーママとして、色々なことにもがきながら毎日を過ごしています。
子供が小さいと、思うようにいかないことも多々ありますが
日々調整しながら、息の長い活動ができるように、と思っています。
人と関わりのあるWomen's Health Support
研究留学で、画像とデータのみを睨めっこする毎日から
出産、産後、流産の経験から
コロナ禍で孤独だった生活から
私はもっと人と関わった仕事、人に寄り添った活動がしたいと思うようになりました。
オンライン主体にはなってしまいますが
同年代だからこそできる乳がんの支援
私自身が当事者だからこそ、同じ境遇にある女性の傍に寄り添ってサポートしたい。
私が医学生の頃にやりたかった女性の健康のサポートを回り回って
現在オンラインで行えている気がします。
乳がんについて、流産について、何か心配なことがあったら、いつでもご相談ください。
私はあなた、そしてあなたの家族の力になりたいと思っています。