ジェフリー・エプスタイン事件が問いかけるもの:若い女性の「価値」とエイジズム
近年、ジェフリー・エプスタイン事件が再び注目を集めています。
トランプ大統領との関係や、獄中死の真相をめぐる陰謀論に多くの人々が関心を寄せているからですが、この事件の本質はもっと深いところにあると感じています。
事件の全体像を知るうえで、Netflixのドキュメンタリーはとても参考になります。
『ジェフリー・エプスタイン: 権力と背徳の億万長者』(2020年公開、全4話)
エプスタインがいかにしてその財力と人脈を使い、長年にわたり未成年への性的虐待を続けてきたか、そしてそのネットワークに存在した共犯者や被害者たちの生々しい証言が描かれています。

『ギレーヌ・マックスウェル: 権力と背徳の影で』(2022年公開、1時間41分)
エプスタインの共犯者であり、表向きは魅力的な上流階級の女性であったマックスウェルの役割や、少女たちをどのようにリクルートしていたのかが明かされています。

もう1人の加害者ーギレーヌ・マックスウェルの存在
ドキュメンタリーを観ていて強く感じたのは、エプスタイン単独ではどこか胡散臭く、このような大規模な性搾取は成立しなかっただろうということ。
彼のそばに、ギレーヌ・マックスウェルという“信頼できそうな大人の女性”がいたからこそ、多くの少女たちは警戒心を抱くことなく、彼女についていってしまったのではないでしょうか。
マックスウェルは、私の目から見ても洗練され、知的で、どこか魅力的に映ります。だからこそ、恐ろしい...。
当初は恋人関係にあったエプスタインとマックスウェルの関係は、やがて変化していきましたが、それでも彼女は、エプスタインのために若い女性たちをリクルートし続ける存在となります。
ターゲットとなったのは、虐待や貧困などの背景を抱える少女たち、あるいは「何者かになりたい」と夢を追う若者たちでした。
「中年男性にマッサージをすれば、200ドルがもらえる」
少女たちに持ちかけたこの誘いは、家庭に居場所がなかったり、不安定な環境にいる若者にとっては、あまりにも現実的で、魅力的に映ってしまったのかもしれません。
しかしその実態は、権力と立場を利用した、明確な性的搾取でした。
被害にあった少女たちは500人以上にものぼるとされています。
若さと可愛さが"通貨"になる社会システム
この事件の根底には、「若さ」と「可愛さ」に価値を置く社会の構造があります。
ジェフリー・エプスタインが価値を見出していたのは、10代から20代前半の女性たちだけだったようです。
実際、ドキュメンタリーの中では「マックスウェルはもう年を取りすぎている」といった発言も登場し、女性の“価値”が年齢によって判断される現実が浮き彫りになります。
登場する被害女性たちは、今では30代・40代。
かつてのトラウマや薬物依存の影響で、心身ともに苦しい時間を過ごしてきた人も少なくありません。
かつてと比べて外見も変わっており、ドキュメンタリーでは「最初は誰かわからなかった」といったコメントが紹介される場面も。
そこには、「若さを失った女性」への社会の冷たさがどこかににじんでいます。
こうしたルッキズムやエイジズムの圧力は、特に女性に対して強く作用していることも見逃せません。
「年齢」と「外見」によって価値を測られる視線は、女性たちの生き方や選択を、知らず知らずのうちに制限しているのです。
「女子高生ブランド」からSNS時代へ
1998年、私が高校生だった頃、テレビドラマ『神様、もう少しだけ』が放送されていました。
女子高生(深田恭子)がチケット代のために援助交際をし、HIVに感染してしまう——というセンセーショナルなストーリーです。
当時、HIVはまだ「死に至る病」として強く恐れられており、若者の性やリスクに対する社会の警戒感が一気に高まったように感じます。
その一方で、「女子高生」という存在が一種の“ブランド”としてもてはやされ、ある種の価値を持って消費されていた空気もありました。
それから20年以上が経ちましたが、「若さ」が社会的な価値として扱われる構造は、いまも根本的には変わっていないように思います。
むしろ現代では、SNSによって“若くて映える見た目”が瞬時に拡散され、評価される仕組みができあがっています。
フォロワー数や「いいね」の数が、まるで“通貨”のように人の価値を可視化してしまう時代。
その中で私たちは、気づかないうちにルッキズム(外見至上主義)やエイジズム(年齢差別)に巻き込まれ、加担してしまっているのかもしれません。

ルッキズムとエイジズムの交差点
私自身、40代になってから、見た目の変化を日々感じるようになりました。
もう若くないな、と自覚する場面も増え、社会の中で“存在感が薄れていく”ような、「invisible(見えなくなる)」感覚を覚えることがあります。
決して老いを嘆いているわけではありません。
ただ、若いころのように無条件で注目される機会は減り、どこか舞台の袖に下がったような感覚になるのです。
きっとこれは、ルッキズムとエイジズムのはざまに、今の私が立たされているからなのだと思います。
「若くて可愛い=価値がある」
そんな価値観に、私たちは気づかないうちに静かに縛られてきたのではないでしょうか。
そしてその価値観を、自分自身も無意識のうちに、次の世代に手渡してしまっている。
ふとした瞬間に、そんなことに気づかされるのです。
娘を育てる親としての葛藤と問い
私には、可愛い娘がいます。
こうした事件を知るたび、彼女がこれから成長する中で、どうすれば性被害に遭わずにすむのかと考えてしまいます。
SNSに娘の写真を載せることについても、そろそろやめるべきかもしれないと日々葛藤し、またそんな世の中にうんざりします。
でも、それ以上に私が悩んでいるのは——
「どうすれば、見た目や若さだけが価値のすべてではないことを、娘に伝えられるのか?」
という問いです。
彼女が、自分の価値を誰かの評価ではなく、自分の中に見出せるように育ってほしい。
そのために、まずは私自身がその問いと向き合っていかなくてはと感じています。

おわりに──今、何を問い続けるべきか
エプスタイン事件は、遠い世界の異常な話…では終わらせられない気がしています。
「若さ」や「可愛さ」「見た目の良さ」がまるで“通貨”のように扱われる社会で、私たちも、そして私たちの子どもたちも生きているからです。
見た目に価値を感じること自体が悪いわけではありません。
でも、それ“だけ”が評価されるような空気には、やはり違和感を覚えます。
さらに言えば、年齢を重ねることにネガティブな意味をつける風潮も、気づかないうちに私たちの中に染み込んでいます。
気を抜けば、私自身も、自分の白髪や太ったことにため息をついてしまうのです。
この問題に完璧な答えがあるわけではありません。
でも、「それって本当に当たり前なの?」と問い続けることは、私たちにできる小さなアクションだと思います。
たとえば――
・「可愛いね」ばかりを褒めない。
・「白髪が気になる」「老けたなあ」と自分を責めすぎない。
・「映えない=意味がない」みたいな空気に流されすぎない。
そんな日々のアクションの積み重ねが、
「若くて可愛い」以外にも価値があるという実感につながるのだと思います。
そしてそれは、他人の評価に左右されない、しなやかな自己肯定感の土台になるはずです。
まずは私から。
そして、娘へと。
少しずつ、価値観のバトンを手渡していけたらと思っています。
